僕の恋愛の見方
アメリカでは、「Love is a game」(恋愛はゲームだ)とよく言われている。既にご存じであるかもしれないが、ゲームには「game of chance」(運によるゲーム、例:賭け事)と「game of skill」(スキルによるゲーム、例:スポーツ)という二種類がある。もし本当に恋愛がゲームであれば、きっとスキルによる方と僕は思う。
まあ、スキルによると言っても、運は関係ないというわけではない。いくら素晴らしい選手でも、負けることはあるし、雨の日に能力の低い相手に敗れることだってある。逆に、下手な選手でも、負ける日が多くても、勝つ日はたまにある。
天気は文字通り天による。天のものなんて、人間はコントロール出来ない。宝くじは引かなきゃ当たらないというのだが、引いても、一般人は当たらない、とも言えるだろう。だから、世界の宗教はいろいろな違いがあっても、「ギャンブルはするべきもんじゃない」と皆とっくの昔から教えてきた。
スポーツはギャンブルと違って、能力を磨けば、もっとうまくなれる。もちろん、そもそも才能がないとそれほどうまくなれないが、天才(?スポーツの場合)だって限界がある。自分を磨くことで、自分の限界を乗り越えていくのがスポーツだ。もりもりの筋肉に優れた知識の持ち主は、皆が憧れているスポーツ選手の理想の姿ではないか。
スポーツ選手はどこの国でもまるで英雄扱いされているみたい。世間によると、ギャンブルやっている人は見下されるのに対して、スポーツ選手はほぼ神様に近い。これに君は賛成か反対かは別として、ちゃんとした理由がある。スポーツに成功するため、運や生まれ付きの能力もあろうが、能力に恵まれても、その能力を育てないとなにもならない。そして、本当に素晴らしい選手は、筋肉のことばかりでなく、幅広い知識と鋭いセンス、それにユニークな技術を身に付いている。無論、この理想を全て実現できる者はそれほどいないが、これは大昔のギリシャのオリンピックからの「スポーツ選手のあるべき姿」と考えられてきた。
つまり、一般にはスポーツが主に体と関係していると思いがちだが、本当にそうだろうか。僕に言わせれば、真のスポーツは、あまり体と関係ない。まあ、もちろん、体が無いとスポーツはできないし、選手らしい体があるに越したことはないのだが、そのボディが真のスポーツの「前提」に過ぎないのではないのか、と僕は思う。大切なのは、その体をどう動かすかであり、どの思いでどの姿勢を取るかがなによりも大事のではないか。
そういう意味で、恋愛も似ていると思う。だいたいにおいて、恋愛は体をみてから始めるもんだけど、それから体の引力は意外と重要じゃない、と思うことがある。それは、セックスレスで良いとかそういうことではなく、ただ、人が好きになる時、その人が前よりよくみえるようになってくる。自分の相手への好意は、濃くになればなるほど、相手がより美しくみえる現象は何回も経験したことがある。
そう考えてみると、自分が美人であれ、十人並みであれ、体は出会いのため餌みたいな存在で、出会いがあってからは、それほど大事ではないかもしれない。
もちろん、恋愛に大事じゃなくても、十分体に気をつけた方が良いと思う。でも、運動や栄養は、相手のためのものではなく、自分のためであってしかるべきと思う。ひょっとして、化粧もそうかも。でも、それについては別の機会に書くつもり。
審判の見方
高校時代、僕はバイトとして、サッカー審判をやっていた。選手は四歳の子供から高校生まで、幅広い年齢層を担当していた。
審判をする時、大切なのは、中立性を保つことと、よく観察すること。
サッカーの場合、他のスポーツと違って、「アドバンテージ」(advantage/先行)という概念がある。これは、反則を受けた選手のチームが、反則をとらなかった方が有利と思われると主審が判断した場合に適用される。アドバンテージを適用した場合、ボールがアウトまでプレイが続行する。例えば、危険なプレーで倒されたが、こぼれたボールが味方に繋がり、敵のゴールの近くからチャンスになるそうだ、といった場合のことだ。
ファールを無視するわけではない。ボールがアウトになると、アドバンテージが適用された場合でも、その後イエローカードを見せることがある。この概念は、決してファールを取られたチームの視点を守る決まりから来ている。これは、バスケットボールなどと大分違うように思う。バスケットボールなら、自分のチームのため敢えてファールをすることはたびたびある。しかし、僕にとってそのような作戦はあまり気に入らない。
だから、僕はサッカーが大好きだ。ルールは平等を重視にしているのだけではなく、人間のやりがちな誤りをもとに作られたので、人間がサッカーをやると、大げさな言い方になりそうだが、その人間がより良い人間になり始めるのではないか、と僕は想像したりする。まあ、実際そこまではいかないかもしれないが、そんなふうに思わせる力がサッカーにはある。
サッカーは世界一人気のあるスポーツだ。理由はさまざま考えられるが、一つどうしても無視出来ないのは、サッカーをやるのに、あまり道具は必要ない。バスケットボールにはゴールが必要だし、アメリカンフットボールなら安全のためのギアはもちろん、特徴的なゴールも簡単に作れないはずだ。ホッケーにはスティックとスケート、テニスにはネットとラケット、ゴルフには幅広いスペース。しかし、サッカーには、ボールさえあれば、ゴールはなんとかなる。だから、世界中どこでも遊べるから、実際にどこでも遊んでいるのではないか、と僕は思う。
恋愛もそうだ。ひょっとして人間にもっとも相応しいスポーツかもしれない。というのは、サッカーはある歳を過ぎるとなかなか出来ないのだが、恋愛には賞味期限なんていない。そして、道具なんて必要ない。ハートさえあれば、なんとかなる。
「勝つ」と「負ける」ってなんだ?
僕は審判をやっていた時、誰が勝つなんて考えたことはあまりなかった。例え自分の妹のチームのゲームであっても、あくまでもルールを重視して、皆を平等に扱うように頑張った。実際、妹のゲームを審判した時もあった。その度、ちょっと苦労したものの、バランスが取れたと思う。強いて言えば、妹のチームの方に厳しかった気がする。なぜなら、妹のチームに有利を与えていないことを証明するため、中立性を強調する必要を感じた。
審判をやるのは人生経験として、とっても良いものだ。審判にしか経験できないことはあまりないと思うのだが、審判だから、普段あまり気づかないことが目立つのがしばしばある。
僕の性格についての一言。実は、サッカーは大好きだけど、滅多にサッカーをみない。僕にとって、スポーツはやるに限る。他の人のプレイをみて、勉強になれるならそれで良いんだけど、エンタテインメントとしてのスポーツには、僕はあまり興味を持てない。そういう意味で、審判が大変有り難い経験になったかもしれない。
不思議なことに、僕は好きなチームがあっても、あまり応援したくない。審判をやるまではよく好きなチームの応援に行ったのだが、審判になってから行かなくなった。なぜだろう。一つ言えるのは、審判とファンの見方が全然違うのである。
視点によって、ゲームの楽しめ方が大分変わる。というのは、ファンは自分のチームが勝つかどうかに注目していて。ゲームの行方に一喜一憂する。たまにゲームより「戦い」にはまっているようにみえて、まるで狂っているように審判に軽蔑の言葉をかける始末になる。ファンの気持ちは一瞬一瞬変わっている。それに対して、審判は冷静でなくてはならないとされている。
審判は仕事だから楽しくないかなと思う人はいると思うが、実際は、僕は非常に楽しく思った。なぜなら、審判と選手にしか体験できない喜びがある。それは、「Good game」(良いゲーム)ということだ。
アメリカの子供のサッカーゲームで、試合が終わると両方のチームは列に並んで、相手のチームの皆とハイファイブして「Good game」と言う。この習慣は、「僕らと遊んでくれてありがとう」みたいな感謝且つ尊敬の言葉である。まあ、心から感謝している人はそれほどいないかもしれないが、理想としてはこういうことだし、この形がどこでも見られる。
この「Good game」は、自分のチームが勝っても負けても行うようなことなので、そういう意味で安心出来る。それと、その概念を考えてみると、なんと素晴らしいことだ。ゲームが終わると、皆のプレイを認めると同時に、この「Good game」の言葉は勝ったチームが負けたチームへ「ゲームに過ぎないだから、そんなに気にしないでよ」というような優しい言葉に聞こえる。
ゲームには、必ず次はある。好きなぐらい、何回やっても良いんだ、ゲームは。
恋愛も何回も何回もやっても良いようなゲームだ。これは、数多くの相手とやることではない。(まあ、そうしている人は確かにいるが、それは僕の言いたい意味ではないとはっきりしておきたい。)いや、恋愛は毎日のような勝負だ。相手が同じでも、試合は毎日行う。そして、今日は一人が勝ち、明日はもう一人が勝つ。勝つと負けるバランスを取れば、その恋愛は大成功に思う。
まあ、これを実現させるのに、二人ともある程度同じ能力レベルが必要だと思う。これは、第三者が判断するようなものではなく、あくまでも自分の心の基準のことだが、とっても大事なんだ。なぜなら、一人が優越感、もしくは劣等感を抱えている場合、その関係は長く続かない。それで、お互いに自分の長所と短所を認め合って、対等に話せる雰囲気を作る必要がある。まあ、「作る」と言っても、なかなか対等な雰囲気は付き合い始めてからは作れないような気がして、そもそも対等に話し合えない人と付き合わない方が良いのではないか、と僕は思う。
みるものとやるもの
昔と比べて、最近のスポーツにはスポーツマンシップのレベルが低くなっているとよく言われている。僕は昔のことあまり知らないが、確かに最近のレベルは低いと思わざるを得ない。僕の出身の有名なバスケットボールコーチBob Knight(ボブ・ナイト氏)が、自分の大学生選手にチェアを投げつけて、怪我を与えさせた。チャンピオンコーチがその程度なら、選手にもあまり期待できないと絶望しそうになる。
もう一つの例をあげる。僕が審判をやっていた時、ある日の出来事だ。六歳と七歳の男子のゲームだった。一人の父親は喧嘩を売るような言葉で相手のチームの子供を脅迫して、脅迫されたチームの父親の一人はその挑戦にのって、実際の喧嘩になってしまった。その日は、警察を呼ぶ必要があった。子供達が六、七歳だったのに。
父親がこのぐらいの者なら、子供は一体とどうなっている、と心配するところではある。もちろん、いくら両親が酷くても、子供にはチャンスはあると思う派だが、両親が子供たちに「いじめしても良いぞ。やられたら、相手をぶっ殺して良いぞ」というようなくだらないことを教えているのであれば、その子供の道徳のセンスを変えようとしても、なかなか難しいものだ。残念ながら、「蛙の子は蛙」ということわざの裏には、ちゃんとした理由があるみたい。
審判して面白いことに気づいた。それは、観衆(特に両親)が少なかった時、子供の行動がいつもより良かったということだった。両親からの圧力がないと、子供は優しいか、もしくは自分が良いプレイヤーであるとひけらかす必要を感じないか、理由はあまり分からないが、確かにその現象があった。
まあ、前にも言ったように、ファンは自分のチームを応援したい。自分のチームの勝利をみたい。勝つことを間接的に経験したい。
このファンの気持ちは分からないものでもないのだが、たまに不健全に思う。というのは、ファンはあくまでも見る側で、実際行動を起こすことが出来ないとされている。しかし、実際のファンの心は、そのフィールドに行って、ゲームに参加したいのではないか、と僕は思う。少なくとも、自分の経験はそうだった。だから、ファンには必ずフラストレーションを感じる。自分は試合に携わりたい。自分のチームを助けたい。でも、叫ぶよりなにもできない。
だから辛く感じて、極端な時に爆発して喧嘩を売るかもしれない。
恋愛も、他人のを見るより、自分で経験した方が良いに決まっている。いつも友達の恋愛に余計な世話をしたがる人を知らないか。十中八九、その人自身の恋愛はうまくいっていない。(そう考えると、当サイト担当している僕の恋愛はどうだろう、という声が聞こえそうだけど)
もちろん、他人から大変勉強になることがある。しかし、他人から学べることには限界がある。自分でやってみないとわからないことがたくさんある。それと同じように、自らやってみないとなんにもなれないことは恋愛にはある。
スポーツマンシップと紳士
試合に勝つか負けるかは、どうでも良い。成果は自分の練習や能力によるが、ゲームの相手、つまり、出会いは運によるもので、勝つか負けるかについては、運の影響が大きい。運なら、良い相手に出会えるように期待するしかない、と思いたくなる。だけど、それは間違いだ。運によるからと言って、運に任せて良いというわけではない。
勝つか負けるか、それはコントロール出来ないのだが、それより大切なことは自分の管理下にはあるはずだ。それは、自分自身の行動である。ゲームをどのようにするか、どの作戦を取るか、どの思いで競争するかは、全て自分の自由だ。これは決して忘れてはいけないことだ。相手に任せることも選択だけど、僕からすると、これは責任転嫁以外のなにもでもない。スポーツはましては、恋愛にはそうことがあってはならない。
出会いの話はどうだろう。相手は素晴らしくても、気持ち悪くても、自分の行動はある意味、相手と関係ない。自分が自分のことを決める。「決めない」とか「任せる」ことも、決断の種類の一つ。しかし、これは相手と関係なく、あくまでも自分の勝手だ。
やっと、本題に入ろう。そもそも、スポーツはなんのためやるか?楽しいからやるか?健康的だからやるか?勝つためからか?まあ、どっちが正解というような問題じゃない。人はそれぞれ、自分に合っている答えを見つければ良いんだ。
最初に、自分なりの定義を示しておこう。一言で言うと、スポーツの頂点は、「自分のベストを相手と一緒に尽くす」というところにあるのではないか。チームスポーツでも、個人スポーツでも、一所懸命練習してから競争して、その後また練習して競争して、永遠にそのループを繰り返す。
「それから?」と思う人もいるだろうが、僕からすると、それだけなんだ。トロフィーもトーナメントも要らない。うまい相手と戦うチャンスさえあれば、それで十分だ。スポーツの面白いところは、統計から見られないのである。統計は観衆のためのものだ。選手には、その場の競争だけで満足できる。
何回勝ったとか、何回負けたとか、そういうのではなく、どれだけ自分を磨いたのかが選手の永遠の自問のではないか。トロフィーより、自分の勝負に対する思いこそが宝物のではないか、と思ったりする。これは恋愛と全く同じだ。勝つとか負けるとか、それはどうでも良い。大切なのは、やり方である。
よく勝っているだから良い選手とは言い切れない。選手であれ、恋人であれ、いくら上手でも、負ける日はきっと訪れる。
その日、自分はどう反応するか?
自分の負け方によって、人格が決まると僕は思う。
英語には、「poor winner」(浅はかな勝者)という言葉がある。「poor winner」はよく子供の映画に出てくる悪人の種類の一つだ。「poor winner」は、ゲームに勝って、「勝ったぞ。勝ったぞ。お前負けたぞ。俺、すごいな。俺、ベストだぜ」というように自慢する奴のことだ。つまり、「勝負には勝ったが、人間としては負けた」ということを指す。
それに対して、スポーツマンシップがある人は、勝っても負けっても「good game」と大きな声で言ってくれる。相手に感謝の思いを伝える。相手にやられても、感謝を込めて言葉をかける。でも、それだけではない。やり方によって、ゲームそのものが変わる。
何よりも勝つことを優先する人は、ずるをするかもしれない。なぜなら、一番凄いことが勝利だと思うなら、ある意味、ずるをするのは当然だ。別にその人のことを弁解するつもりはない。ただ、彼らの行動は非論理的ではないことを主張したい。
でももし、紳士的に(ここで「紳士的」と書いているのだが、決して男性だけのことをさしているわけではない。僕からすると、女性でも男性でも紳士精神はあると思う。ただ、言語には難があって、男性と女性を平等に指す単語は滅多にいない。)良いプレイを見せる目的であれば、ずるなんかはしない。勝つ時は謙虚に受け入れる。負ける時は素直に求める。
なんで紳士はこういられる?
答えは簡単だ。
必ず次のチャンスもあると分かっているからだ。
次のチャンスがあるから、今日は負けても、また頑張れば良い。もしも次に負けても、それでもまた頑張れば良い。いつか必ずそのうちうまくなって、勝てるからだ。それに、そもそも「勝てる」ということ自体は、あまり意味ではない。やり方がほとんどだ。
恋愛はもちろん同じだ。結果よりやり方が大事。例えば、結婚が目的だとする。無理矢理気に入らない相手と早く結婚しても、あまり意味がないのでは、と僕は疑う。逆に、長く良い人と付き合って、結局結婚に至らなくても、その良い思いは一生忘れないので、それで良いのではないか、と思ったりする。
ゲームに参加している時、そのゲームの後のことを考えるより、ゲームそのもの夢中になって、体験すれば良いんだ。