セックスアンドザシティを見ても、あまり同感が湧かない。というより、正直言うと、同情できる主人公は一人もいない気がする。
強いて言えば、セックスアンドザシティの面白いところは、四人の恋愛音痴の女性が偉そうに振る舞って、失敗するのがみえることじゃないかな、と僕は思う。
「男のようにセックスする」とはどういうこと?
シーズン1にの第1エピソードに、キャリーは「これから男のようにセックスしたい」と宣言するのだが、僕からすると、これはどうみても情けない話。セックス好きな男に利用されるのはもう我慢できないから、復讐として男共を利用してセックスするという理屈は、ある意味通っているものの、本当にそれで良いのかと思わざるを得ない気を起こす。
「男のようにセックスする」ということは、「プレイボーイのように体の関係を持ちながら相手を考えずに進む」という意味で、さらに言えば、「相手の気持ちを考えずに、まるでオナニーのように相手をただ道具として利用してから、申し訳なさの一滴もなく、相手をティッシュのように捨てる」ということまで考えられる。まあ、第一の疑問はなんでこんな嫌な奴の真似をしたがるのかと思ってもしようがない。
もちろん、男性からすると、女性が積極的にセックスに目を向けるのは嫌な話ではない。しかし、ここで一つの問題がでてくる。女性が男性をセックスのために利用しようとしても、現実の壁にぶつかってしまう。なぜなら、そもそも男性の多くはセックス関係を求めているからだ。これは、セックス・アンド・ザ・シティのライターも分かっていたみたい。例えば、シーズン1にキャリーは偶然元セフレを喫茶店に出逢う。別れた理由は、彼はいつもわがままで、セックスしか求めなかった。だけど、やっぱり彼は誰よりもセックスがうまいらしく、まあ、女性冥利に尽きる気分でキャリーは彼のアパートに行って、彼に舐めてもらってからさっさと去る。彼にサービスをせずに。彼女は「復讐」のつもりでやったみたい。けれど、最初に彼は怒ったものの、次会った時、彼女にこういった。「おい!やっと君が俺の望んでいる関係を理解できたじゃない。この前はちょっとキツかったけど、今度はそういう気分になったらいつでも連絡して良いよ。俺、一人ならすぐやってくるからさ。では。」
利用するのに、相手の意志に反する行動をする必要がある。そういうわけで、セックスによってそもそもセフレを望んでいる男を利用することはできない。逆に、このように振る舞うと駄目男はむしろ喜ぶ。
この「男のようにセックスする」傾向は、現代社会で女性にもできるようになったのは、女性が自由になったと解釈している人がいるが、僕はその説明に大きな勘違いがあると思っている。
ならなら、女性はセックスすることで権利を得ることは非常に難しいからだ。女性の男性に対するパワーは、セックスを断ることによると僕は思う。
女性は自由にセックスできても、男性のように「気兼ねなく相手を忘れる」ことが本当にできるか、疑問に思う。そもそもそういう男性も珍しいという気がする。「自分が嫌いだから、誰とでも寝る。そして、目が覚めたら相手を忘れようと努力する。」人は確かにたくさんいる。しかし、だいたいにおいて忘れるのに努力が必要。すぐ容易にできるわけではない。女性であれ男性であれ構わない。
もちろん、純粋にセックスが好きで体の触れあいを素直に楽しむ人もいる。しかし、歳をとればとるほど、残念ながらこういう人の数が少なくなるみたい。若いときに「欲求不満が故のセックス」と言ってもあまり分からない人が多いのだが、中年になったら、これが決まったパターンになってしまうと見られる。結婚に不満やら、いまだに独身であることに不満やら、仕事に不満、子供に不満、両親に不満、人生そのものに不満・・・不幸な理由は富士山ほどある。だから、最初の頃はただ体の動きを楽しんでも、いつの間にか真剣になるか、軽いことに空しい感じを埋めようとするようになるか、その二つのうち一つを選ぶ必要があると思う。
やっぱり結婚
番組のタイトルから主人公の四人はsexually liberatedと観測しても不思議ではないのだが、実は番組の数エピソードをみてみるとサマンサを除いてそういうことはない。サマンサは本当にいろいろな人と付き合うのを純粋に楽しんでいるみたいだが、彼女以外の三人はそうはいかないみたい。
シャーロットの結婚願望は明確だが、キャリーのも自分以外にみえみえだ。ミランダは微妙だが、結婚は望まなくても、少なくとも安定している彼氏を探していると言える。なのに、彼女たちは30代後半になっても、セックスを初めて体験した女子高生のように振る舞おうとして、駄目男ばかりと付き合っている。まあ、テレビドラマのネタとして、こっちは面白い方だと思うけど、もしこのような女性が本当に存在するなら、残念だな、と反省する。
彼女たちはいつも自分の自由を大切しているつもりなのに、何が自由だと理解できないがゆえ、手慣れた男性にもてあそばれる羽目になる。
そういう意味で、男性はこういった「自由」な女性を醍醐味として味わっているかもしれない。男性に束縛されている社会から、女性が自ら自分を束縛する社会へ、という展開を表しているだろう。
結婚失格
キャリーはシーズン1のあるボーイフレンドのことを「I'm just trying him on」と表現する。普段「try on」は服がどうみえるか確認するという行動で、このように付き合いをあっさり言っている女性が格好をつけるため言う台詞と思うのだが、長い目で見なくても、すぐ彼女の偉そうな態度がいくら弱いものなのか、だれでも分かるはずだ。僕を信じなくても、ミスタービッグとの関係をみればすぐ分かるだろう。
また、結婚資格はまるで一つも持てない。シーズン6の中に、キャリーはようやくアパートを買おうと決断する。しかし、頭金ぐらいの貯金すらない。既に四十代でずっと自分で稼いできたのに。親友のミランダと話すうちに分かる。アパートの頭金の額ほど靴に費やしたということを。
まあ、誰でも趣味はある。しかしながら、住むところを考える前にニューヨークシティのアパートの頭金ぐらいの額を趣味に回す人は、責任放任主義としか言うようがない。そして、こういうような女性を愛しても、お金持ちじゃない限り、現実的に付き合えないかもしれない。とにかく、これは結婚のチャンスの大きな障害になるだろう。
そればかりではなく、キャリーはまだどのような相手が良いのかを分からず、暇つぶしでもしているかのように、いろいろな男と付き合っている。そして、切ろうにも切れない縁がいくつかできてしまった。ビッグにも、エイデンにも。それに、若くはない。
こういう種類の女性の結婚が難しいのは、確かだ。しかし、これは彼女が選んだ道より他にないから、別に同情にも値しない、と考えている。
僕は冷たいかな。
まあ、ライターもそう思っているかもしれない。結局、これは作成者の優れた皮肉のセンスかもしれないが、キャリーは映画でしか結婚できない。彼女とミスタービッグを「永遠」に結びつけるため、ハリウッド風の映画が必要だった。キャリーはいつでもスポットライトをあびていたいのだ。
ところで、不思議に思ったのは、彼女にとっては初めての結婚となったが、ミスタービッグはなんとバツニで、彼女が三番目の奥さんになる。そして、エイダン元彼は彼女と別れてからすぐ別の女性と結婚した。また、彼女と彼女なりに真剣に付き合っていたアレクサンドルもバツイチ。彼女は40歳を越えてから結婚して、まあ、それはそれで良かったけれど、もしもうちょっと前に真剣になってたら、もっと良い男性を手に入れたチャンスはあったという感じがしないでもない。
僕はなにが言いたいかというと、セックス・アンド・ザ・シティをみるたびに、なんでこんな女性が同じ失敗を何回も繰り返すのかは理解できても、なんで聴衆がそれを面白くみているのか、と思わざるを得ない。その時、見ている自分に気づく。
うまい付き合いと繋がらない習慣
四人の男性に対する運が向いてこない理由をもう一つ言わせて頂く。それは、彼女たちはいつも四人でなんでもかんでも解決しようとするからだ。
四人の家族は6シーズンのうちに一度も顔を出さない。ミランダのお母さんの葬式はあるが、それ以外、兄弟や両親や親戚の話題はタブーみたい。そして、異性の友達は皆ゲイで、ストレートな男性にストレートに話せる人は一人もいない。先輩も後輩もあまりいない。だから、四人が間違った結論に辿り着くのは当然としか思えない。悩んでいる時共感できる相手は良いのだが、皆が同感の場合、誰も解決方法を知らないとすると、不幸に終わることが多く発生してもおかしくない。
情報も不足している。キャリーはセックスのコラムを書いているのだが、これはゴシップページのものだし、内容は自分と友達の経験しか載っていないので、これも参考にならない。それに、出逢いの場所はバーとかギャラリーに限られていて、普段同じパターンになってしまう。そして、Vogueとか有名な女性誌に投稿することもあるのだが、これらも一種のゴシップなので。
まあ、番組のシーンとしてちょうど良いのだが、実際恋愛に悩んでいる女性は同じように悩んでいる女性にしか相談しないことを考えると、ちょっと残念な気がする。
作成者について
アメリカではセックス・アンド・ザ・シティは「ゲイ男の作った番組」と批判された。なんでアメリカではこれを「批判」と表現するかという問題はほっておいて、ライターたちを調べてみよう。設立者はゲイの男性で、head writerもゲイの男性。だが、他のライターが六人の30代の独身女性。
エッチなタイトルがあるにもかかわらず、この番組は男性にあまり受け入れられなかった。「アメリカの男性でも強い女性が怖い。セックスに積極的な女性はなおさらだ。」と解釈している人もいるが、僕からするとその解説は全くハズレだ。上に述べたように、同感できるキャラクターはあまりいないという理由が挙げられるし、番組に出てくる男性も女性も一次元のようなキャラクターばかりで、一本のエピソードをみても全てがみえたかのように感じることも嫌われると思う。
シリーズが終了した後、ライターの会議がテレビで映っていた。僕はそれをみて、一つのライターの言葉が今でも記憶に残っている。「番組のテーマはなんだというのは面白い質問だ。最初の頃、『セックス』や『ファッション』と思っていた人が多いみたいだが、最後の方をみると、『本当は恋愛がテーマだった』とわかると思う。」
恋愛か?僕は彼女の言葉を耳にした時、既にシリーズの全てのエピソードをみたことがあったが、恋愛がテーマだったのはこのライターの言葉をきっかけに初めて知ることができた。でも、恋愛がテーマなら、なぜ高校生より付き合いが下手なのだろう、というように同時に疑問に思った。
「恋愛」はどこにあったのか。確かにロマンスはあった。しかし、一晩の関係だけで恋愛と呼ぶなら、ちょっと違和感を覚えてしまう僕がいる。そして、ミスタービッグとの関係など、お互いを利用したり喧嘩したり別れたりする活動も恋愛と言うならそれまでだが、もしテーマならもうちょっと洗練された恋愛が欲しかったなと思う。
まあ、番組は洗練された恋愛ではなく、ありのまま、つまりリアルな恋愛をお届けしていると言いたい人もいるかもしれない。しかし、僕からすると、番組のエピソードの中に出ていたものは、あまり現実感を持てるものではなかった。まあ、僕はニューヨークに長く住んだことがないので、アメリカならではの大都市の事情は自分が思っているよりくだらないかもしれないけど。
とにかく、残念でならないと思ったのは、番組の台詞が確かにうまい。設定もだいたい面白い。うかつに言ったことにも、興味深い意味が含まれているものも珍しくない。なのに、主人公たちはあまりにも普通の付き合い下手な女性ばかり。
考えるきっかけになりました。
SACTで一番違和感を感じたのは、ボーイフレンドかゲイしか「男性」が存在しないことかな、と。
どのシーズンのどの話かは忘れましたが、「男性に女性として見られないなんて耐えられない、単なる男性の友達なんて要らない」というシーン。「友達なら、あなた達がいるから良いのよ」っていうシーンですね。アメリカ人全員がそんな風に考えているとはとても思えませんが、逆に男性が「女友達なんて要らない、男性として見られないなんて耐えられない」って考えだったらガッカリしますね。
日本は男尊女卑って言われますし、その部分も確かにありますが、そこまで狭い考えはあまり聞いたことが無かったもので。「女性としてしか見て欲しくない」、というセリフは、私にはそれこそ酷い性差別の気がしました。そこまで性別の違いだけで区別する必要があるのか?と。SACT、女性ファンは多かったようですが、私は色々な部分で共感出来ない所がありました。レビューを読ませて頂いて、「自分は彼女らの何に共感出来なかったのか」と考えることが出来ました。ファッションは素敵でしたけど。。。レビュー、ありがとうございました。
納得しました
私は当初セックスアンドザシティという映画を理解できませんでした。
最初に見た時はあまりのつまらなさに疑問を抱きました。
多くの女性にはこの映画が楽しめて、男性ファンが全くいない理由を探すために見ました。
男性向けでないことは心底理解できました。
しかし、なぜ男から見るとつまらない映画になるのか説明が付きませんでした。
このレビューを見て納得しました。理解しました。ありがとうございました。
端的に書くと、つまり、この映画に出てくる女性の誰一人として魅力的に感じられなかったからです。
単純に多くの女性が魅力を感じる女性像と、私が魅力を感じる女性像が全く合わないからです。
「私」と書きましたが「男性」と書き換えてもよいでしょう。
男性ファンが全然いないことや、主要なライターにゲイ以外の男性がいないことから、それは客観的に証明されている事実です。
「女友達の友情コミュニティに閉じこもっている視野の狭い4人の女性」という指摘は的を射ています。
これを「女の友情」と喧伝するのは女性にとっては危険なことです。
モテないヲタク男たちが、男4人の友情コミュニティでくだを巻いているのとなんら変わらないです。
女性の場合、自分が望めば簡単にセックスできるというのが男4人と違うだけの話です。
男性の価値観だけで生きる男性には経済的従者としての女性しか付いてきません。
同様にこの映画のように女性の価値観だけで生きる女性には経済的従者としての男しか獲得できないでしょう。
女性が経済的に自立した現代だからこそ、そうした生き方を女性が選択できるようになったわけです。
この映画はいわゆるそんな「自立した女性」像を見事に表現できたと言えます。
できたと言えますが、全然魅力を感じません。
SATC は、
あなたがただ単に、女性の心をわかってないから登場人物の行動が理解できず楽しめないだけですよ。女性には、うなづける心理描写がたくさんあります。
全体的に文章の感じから、日本へは成人されてから渡られたのでしょうから本当の日本の深い部分をどの位目の当たりにされているのかわかりませんが、日本の文化的背景からくる男尊女卑は未だにかなり根強く、アメリカのそれとは比べ物になりません。また、あなた自身男性ですから、日本で女性として見下されたり男性上位の風潮に抑圧されたご経験がないのでアメリカと変わらないと思われるのでしょうね。私は十数年前にアメリカへやってきてアメリカ人の男性と何人かお付き合いをし、いまの夫もアメリカ人ですが、日本にいた頃はもちろん日本人とお付き合いもしていましたが、日本とアメリカの男性ではやっぱり女性の扱い方にはかなり違いがありますよ。どちらがいいとは言いませんが、女性を平等に扱ってくれるという意味ではアメリカの男性の方がずっとそうであると言えるでしょう。あなたは、男性である故に、女性が実際に体験する両者の違いというのは永遠に分からないものだと思いますし、逆にいえば女性である私はアメリカ人女性と日本人女性の男性に対する扱いというのを肌で感じることはできないということです。
ちょっと余りにself contained な分析をされていたので思わずコメントしましたが、no offense ですので悪しからず。